文部科学省による問題行動調査の結果、平成25年度の全国のいじめの認知数が過去最高を記録したとの報道がありました。23年の大津市でのいじめによる自殺事件以来、いじめの認知数はそれ以前の2倍にのぼるようになりました。ここで一つ確かめておきたいのは、いじめは何も、相手を故意に傷つけてやろう、という気持ちから生じるばかりなのではないということです。むしろ、面白いからいたずらをしてやろう、ちょっとからかったら仲間内で盛り上がれるだろう、と思って行うケースが少なくないのです。
18世紀のドイツの哲学者であるイマヌエル・カントは、「目的の王国」という概念を提唱しました。人は人を目的としなくてはならない。決して人を手段としてはならない、というのです。相手の苦痛を望むのでなくても、自分が楽しむための手段として、人を傷つけることをしてはならないのです。いじめをした子どもから話を聞くと「別にいじめるつもりじゃなかった」「遊んでいるつもりだった」という答えを聞く事が多々あります。
しかし自分が楽しむことだけを考え、相手の痛みを考えない時、事実として現れるのはいじめなのです。以前、ある中学校で担任をしていた時、学級内でのいじめを、加害者の保護者に連絡したことがあります。すると「うちの子はいじめをしているつもりはなかった。それなのにいじめと決めつけるんですか」という言葉が返ってきました。
かつて、文部科学省のいじめの定義は「(1)自分より弱い者に対して一方的に、(2) 身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、(3) 相手が深刻な苦痛を感じているもの。」でした。平成18年度からはこれが「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」となっています。いじめた側にいじめの意識があろうとなかろうと、いじめられた側にとってはいじめには違いないのです。
「自分は周りで見ていただけだから関係ない」と言う子もいます。いじめの三重構造という言い方があります。①直接相手に危害を加える者。②近くではやし立て、加害行為を肯定する者。③その周りで傍観することによって、行為を黙認する者、の三者をいいます。「黙認」というのは、結局その行為を認めること、後押しすることなのです。
自分の欲求を充足する手段として人をなぶる。どんなことがあっても許されることではありません。相手の幸せの実現を目指して行動し、相手と共に喜び合うこと目的とするのが、人としてあるべき姿、「目的の王国」です。東栄小学校の教育の目指すところは、「ともに生きる」です。
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