フローレンス・ナイチンゲールはクリミア戦争のときに活躍した看護婦さんです。 ナイチンゲールは、1820年5月12日に、イギリスのお金もちの家にうまれました。馬車にのって、王様のダンスパーティーにでかけるようなぜいたくなくらしでした。でも病気の人のお世話をするほうが好きだったナイチンゲールは、看護婦になることを決心しました。家族は、びっくりして反対しました。そのころ、病院は暗くてきたないところだったからです。
それでもナイチンゲールは看護婦になるため勉強をつづけ、ドイツの病院できびしい訓練をうけました。1853年にやっと、ロンドンの病院の監督になることを、おとうさんが認めてくれました。そしてナイチンゲールは、それまで暗かった病院を、たったの一年ですばらしい病院にかえてしまいました。
1854年にクリミア戦争がおこり、たくさんの兵隊がけがをしましたが、ひとりの看護婦もいませんでした。この人たちをたすけるため、ナイチンゲールは38人の看護婦をつれてクリミアへいきました。1000人ものけが人を看病するだけでなく、よごれた病院を掃除し、シーツをきれいに洗濯し、あたたかい食事をだしました。ナイチンゲールの努力のおかげで、けがをした人が死んでしまう割合は40%から2%にへりました。敵・味方の区別なく、けが人を助けたナイチンゲールの活躍は、デュナンが「赤十字」をつくるのに大きな影響をあたえました。
戦争後、イギリスに帰リましたが仕事のし過ぎで体をこわし、車いすでの生活が続きました。それでもナイチンゲールは、病院をよくするために、はたらきつづけました。ベッドの上で12,000もの手紙、論文、本を書き、イギリスの女王や大臣も説得しました。1860年、ナイチンゲールに感謝した人びとから寄付されたお金で、ロンドンのセントトーマス病院のとなりに「ナイチンゲール看護学校」をつくりました。世界で、はじめての看護学校です。この学校の教育はたいへんきびしく、たくさんの学生がすぐれた看護婦になりました。そして、世界中で活躍し、看護という仕事の大切さを、人びとに認めさせました。その後、ナイチンゲールの考えを模範にした看護学校は、世界中に作られるようになりました。
ナイチンゲールは90才のおばあさんになりました。1907年、イギリスから最高の勲章が贈られました。1910年8月13日、ナイチンゲールは、ロンドンのサウスストリートのアパートで眠るようにしずかに生涯をとじました。 (ヤフーキッズより)