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夢と絆の講演会

「夢をあきらめない」 講師 石黒 由美子さん

 

 

 最初にシンクロナイズドスイミングの大会の映像を見た後、自分の体験を振り返りながら、次のような話しをしてくださいました。

 

   今考えていることが、どんなことも現実になっていく。みんなには何だってできる力がある。

   自分の両親は明るく、人をもてなすことが大好きな人であった。

   小学校2年生の時、車に追突され、大けが。顔面粉砕骨折・記憶喪失・目が見えない・難聴・学習障害。母との二人三脚の人生が始まる。

   夢ノートを書く。自分の、家族の、友人の願いを書く。願いがかなったら、赤線を引き、「ありがとう」と書く。

   弟が車のおもちゃを欲しがっていたので、夢ノートに書き、弟にそのおもちゃを買ってあげる。自分の願いは周りの人がかなえてくれる。入院生活の間、そんなふうに夢がかなうことが楽しかった。

   病棟の人たちは全身ケロイドであったり、両足切断であったり、みんなつらそうだった。自分もひどいけがだったが、母がつらいと感じないようにしてくれていた。自分もみんなを楽しませることはできないかと考えた。最初はあいさつから始め、毎朝、病室をまわり、みんなにあいさつした。それから名前を覚え、話すようになり、一緒に遊ぶようになった。

・ 退院前にシンクロナイズドスイミングを見て、自分もやりたいと思った。 

   退院後の学校生活では友達が少なかった。言い方がきつかったせいだと思う。

   シンクロナイズドスイミングは、やりたい子だけ、やれる子だけ残ればいいという

所だったので、必死でがんばった。母親と「こそ練」といって、別のところでもこそこそと練習した。

   中学の時、腎臓の病気になる。大丈夫じゃないけれど、休まずに練習した。

   最初の30秒が上手ということで有名だった。自分は病気が治れば、全部上手にできると自信をもった。

 ・ 母の勧めで、私学ではなく日進高校に入学した。みんな勉強はできなかったが、いい子ばかりで、楽しい高校生活を送った。学校を中退した子もいたが、再会したら、医者を目指してがんばっていた。

   愛知教育大学に合格する。教育実習と合宿が重なった時は大変だった。教育実習では、自分ができないことが悔しかった。

   自分で決めて、自分で頑張る。

   アテネオリンピックの選手に選ばれなかった時、周りの人たちは、次は絶対選ばれると言ってくれた。しかし、夢がかなわないと、努力した分つらく感じた。

   そして、北京オリンピックで代表に選ばれた。

   夢はあきらめなければ絶対かなう。

 

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